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哲学とは
人々はものすごく昔から3つの問いを求めています
- 世界はどのように成り立っているのか
- 人間とは何なのか?
- 私達はどのように生きるべきなのか?
哲学史は、この3つの問いの答え、真理を探し続ける物語です。
真理はまだ全ては明らかになっていません
でも、今からお話する内容にそのヒントが必ずあると思います
真理探求の旅に出かけましょう。
今回は近世になります。
哲学の始まりから読みたいという方はこちら
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近世 1500年 ~ 1700年
近世では、中世での神を中心とした世界が少しずつ変わっていきます。
人々が神を絶対のものという考えが薄れていき、合理的にものごとを見つめて考えるということに、目覚め始めたのです。
近代では、合理的にものごとを考えていくための方法を、哲学者たちは考えていきます。
近代哲学の祖 デカルト
- 哲学の第1原理を定義した。「我思う、ゆえに我あり」
- 我=人間がどのようなものなのかを定義した
デカルトは頭が良くて、20歳で大学を去るのですが、そのときこんなことを言ったようです。
そんな超頭の賢いデカルトは放浪の旅に出ます。
その放浪の旅は、新しい真理を見つけ出そうとする旅です。
デカルトはトマス・アクィナスが構築した神様絶対すごい論に代わる新しい真理を作ろうとしました。
人々が神を絶対のものという考えが薄れていき、合理的にものごとを見つめて考えるということに、目覚めはじめたといっても、
デカルト以前の哲学は、
といったように自分勝手に主張しただけでした。
なので、デカルトは、きちんと物事を考えるためには、なにか絶対的な第一原理が必要だ!!
と思い、その第一原理に沿って、きちんと物事を考えていく方法を考え始めました。
じゃあ、その第一原理ってなに?という話になっていきます。
その第一原理を知るために、デカルトがとった方法は、なんでも疑うというものでした。それは方法的懐疑(ほうほうてきかいぎ)といいます。
少しでも疑う余地があれば、それを徹底的に疑っていくとう考え方
徹底的になんでもかんでもでも、疑っていきます。
神様がいるなんて、本当か信じられない。
目に見えるものが本当に実在するかなんて信じられない。
ペンギンが空を飛べないなんて信じられない。
お金を借りて返さないお前のことは信じられない。(そりゃ信じられない)
こんな感じで、ものごとを疑い続けて、もし疑いきれないものが残れば、それこそが真理を構築するものだとデカルトは考えたのです。
この中で、目に見えるものが本当に実在するかなんてわからないということを、
デカルトは突き詰めていきます。
デカルトは、この目に見えるものが本当に実在するかなんてわからないということを、悪意のある悪霊という存在まで出してきました。
人間に幻影を見せ、面白がっている悪意のある超越した存在。もうこうなったら、目に見えるものがすべて、その悪霊に見せられているだけということになり、どう生きるとかそういう話はすべて無駄になってしまいます。
そんな全てに対して疑いを持つデカルトは思います。
「我思う、ゆえに我あり」!
デカルトは、一つの真理にたどり着きます。
もし、この世の中が悪意のある悪霊に見せられているとしても、俺らが考えていることをは、疑いようのない事実だ!
そりゃ、そうだろっと思うかもしれませんが、
デカルトは古代から中世、近世と今まで、神様が絶対的な真理であった中で、人間(自分)の存在こそが絶対的な真理であると断定し、世界にあるすべてのものよりも優先するべきだといったのです。
この哲学の第一原理をさらに、デカルトは深堀していきます、
でも、じゃあ、人間ってなんなの?ってなったときに、何故かデカルトは、また神を持ち出してきました。
人間は生まれた時から、好きなものや、嫌いなもの、善悪を持っている。それは、神様が人間を作るときに、誠実で正しいものや完全なものについて教えてくれたからだ。
人間は誠実で正しいものや完全なものを知ってて、それは神様が作ったから。
そうデカルトは言ったのです。
これに異を唱えるものが出てきました。
ヒュームです。
私はすべてを疑う ヒューム
- 人間はなんなの?ということに対して、経験の集合体でしかないという一つの結論を出した。
デカルトが言った「疑っている自分がいる」ということに対して、
ヒュームはじゃあ、その疑っている自分ってなんなの?人間ってなんなの?ってことを考えた人。
ヒュームは、人間は「知覚の束」に過ぎないといいます。
まず、知覚とはなにかになりますが、
目や耳や鼻や肌によって、世界の物事を見たり感じたりして、それによって、熱いであったり、重いであったり、硬いであったりを判断すること
になります。
そして、ヒュームは「人間は世界をたくさん知覚し、自分に取り入れていくことでできた知覚が束になったものでしかない」
例えば、
あるときは、友達ができない。
あるときは、失恋した。
あるときは、仕事ができず怒られた。
こういう経験が積み重なったものが、その人を形成しているとヒュームは言います。
もちろん、悪い経験だけではなく、良い経験も含まれます。
ヒュームは、人間自身は何かをもって生まれているのではなく、経験のみによって、形つくられているといいます。
そうだとしたら、僕たち一人ひとりに個性はなく、ただただ、その経験にのみによって、形つくられているということになってしまいます。
この考えにより、デカルトが言っていた。「我、思う。故に我あり」に対して、
そんな我=わたしみたいなものは、経験にのみ形つくられた知識の束でしかないという風に、ヒュームは定義しました。
まとめ
近世では、デカルトの功績によって、神よりも人間を優先するという考えが生まれました。
そして、その人間とは何かということを真剣に考え始めました。
デカルトは、人間は、生まれながらにして、正しいことや、完全なものを知っている神がつくったもの
ヒュームは、人間とは、生まれたときは真っ白で、経験によって形作られている
といいました。
それぞれ、意見が違います。では、人間とは一体、なんなんでしょうか???
それについては、近代のカントが一つの答えを出しています。
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